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2019年10月19日 (土)

徘徊的考察

俳句」と「俳諧」の徘徊的考察

最初、「俳諧」の「おかしみ・おどけ」(引用は字通)を支えているのは「諧」の方(諧謔がある)だと思っていたのだが、実は「俳」自体に、「たわむれる(二人相戯れて演技する)」という意があり、出だしからつまずいてしまった。ちなみに、「諧」には、「諧(かな)う」という読みがあり、「ととのう、やわらぐ」の意で、裁判などで出て来る「わかい」は「和解」だと思っていたが、じつは「和諧」だったのだ。では「句」は何かというと、「まがった形の点、それで句読をつける」とあり、文章の終るところをいう語だとある。

何故こんなことを考えたかというと、清水豊氏が植芝盛平翁について、「絵を見ているようなイメージによる認識」とあり、また「太古の英知を受継ぐ『易』にしても『老子』にしても、フレーズがきわめて短いのは、イメージによる認識を言語に移しているからである」(武産合気)とあったからである。それで、俳句も俳諧も言葉が短いのは、イメージ(絵)を大切にしているからと思ったわけだ。そこから、よりイメージの分野に発展していったのが俳句、言葉(ダジャレ)の方向に行ったのが俳諧と言いたいわけなのだ。俳諧は「音」に意味を重ね、意味を「ととのわせ、かなわせて」いるのだ。

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