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面白かった、しろい本

  • 保江邦夫: 唯心論武道の誕生
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2019年1月12日 (土)

「人を見たら・・・」

読み返しなのだが、一度目のことが頭にまったく残っていない。前回(2013・3・5 初版)では早すぎたのか。今回はすんなりと入ってくる。今読むべきなのだ。

右脳のことを考えている。普通の武術は左脳の武術なのだ(力学的・物理的)。それに対して、神道(陰陽道)の神通力・神業と言われるもの(古くは手乞:相撲の前身)、あるいはキリストの活人術・護身術は右脳の武術なのだ。その間には「暗くて深い河」がある。脳科学者のエベン・アレグザンダーが体験したように、左脳が故障すると右脳だけの感覚になり、「机についた自分の手と机の境界が曖昧になり、繋がっているような」感覚になるという。自分と世界(宇宙)が繋がりを持つ(一体感を持つ)と言う。当然そこに神様という言葉が出てきても不思議はない。

合気道・合氣柔術など、合気(合氣)と付く武術は右脳の武術なのだ。如何にして左脳の働きを抑えるかが問題の武術なのだ。大東流は陰陽道(神道)から出ており、合気道も神道に関係している。また、キリストの活人術:冠光寺眞法は、活人術の合気をそれまでのもの(左脳系か)と区別するために「愛魂(あいき)=冠光寺流柔術」と呼んでいる。「眞法という言葉を使ったのは、人を倒すとか、道場でなければやれないという領域を超えて、人を活かす道としても伝えられると思ったからです。相手も活き、自分も活きる、それが活人術にほかなりません。保江邦夫」と言うことだ。

ここでこうして私が書いているのは極めて「左脳的」なのだが、これを「右脳的」に書くと、長島さんが言ったように「ヒュッと来たボールをポンと打つ」。あるいは稽古の時、「正座・半座で相手(受け)と両手を合わせると、受けがピョンと立ち上がる、まるで自分から立ったように」となる。これでは何のことか判らない。実際に自分でも判らないのだが。

そこで、如何にして左脳を使わなくするか。第一番は身体をよく使うこと(人に親切にする、ゴミを拾うなど)と言う。次に他力本願。自我・自分の考えを捨てること・しもべになる(人を見たら神様と思う)こと。次には「愛し・愛されていると思い込む」。最後はマザーテレサのように、「在るがまま」にと言う。自分が何も考えなくなった暁には「在るがまま」になれるかも知れない。

Hito

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