最近は古代日本にはまっていて、それも特に、
関祐二氏にはまっている。
「聖徳太子は蘇我入鹿である」から始まって、
今読んでいるのが「『古事記』と壬申の乱」である。
次に読む本も決まっている。
「古事記・・・」を半分まで読んでひらめいたのは、
「古事記」は鎮魂の書ではないのか、と言う事だ。
氏のあとがきを読んだ限りでは違うようだが、
「古事記」と「日本書紀」の矛盾は
「鎮魂」という言葉でおさまるのではないのか、と思ったわけだ。
「源氏物語」「太平記」と続く鎮魂の書の前に
「古事記」があっても不思議ではない、むしろ自然ではないのか、
なんて考えた。
雨が降ってヒマなのだ。
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