修行論
修行論 内田 樹 を読んだ。
自分がものごとを知覚し、受容し、認識しているときに用いている
知的な枠組みの射程は限定的なものであり、
「私の知的枠組みを超越するもの」が存在する蓋然性は
高いと認めることである。
私は、このような自己の知的射程の有限性の覚知のことを、
「科学的」と呼ぶべきだろうと思っている。
だが、私たちの社会では、この言葉はそのような意味では使われていない。
むしろ、計測可能、数値化可能な現象だけを扱う自己抑制のことを、
「科学的」と呼ぶことが習慣化している。
・・・・・いまある計測方法で考量できないものは
「存在しない」と決めつける退嬰的態度のことは、
むしろ、「科学主義的」と呼ぶべきだろう。
多田先生(内田氏の師匠)は、
「戦国時代の武士がもし今の世に生きていたら、
刀を振ったり、人を投げたり殴ったりするような稽古をしているはずはない」
「武士が今の世界に生きていたら、
おそらく最先端の科学を研究しているだろう。
どうすれば人間の生きる知恵と力が高まるかを知るために、
医学であれ、情報工学であれ、軍事科学であれ、
そういう研究をしているはずである」
そのときどきの歴史的環境において、
生き延びるためにもっとも有効な手立てを
ためらわず選択することができるのが、
その語の本来の意味での「武士」である。
内田氏はエマニュエル・レヴィナスというフランスのユダヤ人哲学者と
合気道の多田宏氏二人を「心の師」としているそうな。
文章が長くなったのは、私自身が記憶に残すためです。
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