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面白かった、しろい本

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2013年8月28日 (水)

修行論

 修行論 内田 樹 を読んだ。

 自分がものごとを知覚し、受容し、認識しているときに用いている

知的な枠組みの射程は限定的なものであり、

「私の知的枠組みを超越するもの」が存在する蓋然性は

高いと認めることである。

 私は、このような自己の知的射程の有限性の覚知のことを、

「科学的」と呼ぶべきだろうと思っている。

だが、私たちの社会では、この言葉はそのような意味では使われていない。

むしろ、計測可能、数値化可能な現象だけを扱う自己抑制のことを、

「科学的」と呼ぶことが習慣化している。

・・・・・いまある計測方法で考量できないものは

「存在しない」と決めつける退嬰的態度のことは、

むしろ、「科学主義的」と呼ぶべきだろう。

多田先生(内田氏の師匠)は、

「戦国時代の武士がもし今の世に生きていたら、

刀を振ったり、人を投げたり殴ったりするような稽古をしているはずはない」

「武士が今の世界に生きていたら、

おそらく最先端の科学を研究しているだろう。

どうすれば人間の生きる知恵と力が高まるかを知るために、

医学であれ、情報工学であれ、軍事科学であれ、

そういう研究をしているはずである」

 そのときどきの歴史的環境において、

生き延びるためにもっとも有効な手立てを

ためらわず選択することができるのが、

その語の本来の意味での「武士」である。

 内田氏はエマニュエル・レヴィナスというフランスのユダヤ人哲学者と

合気道の多田宏氏二人を「心の師」としているそうな。

文章が長くなったのは、私自身が記憶に残すためです。

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