修行論 内田 樹 を読んだ。
自分がものごとを知覚し、受容し、認識しているときに用いている
知的な枠組みの射程は限定的なものであり、
「私の知的枠組みを超越するもの」が存在する蓋然性は
高いと認めることである。
私は、このような自己の知的射程の有限性の覚知のことを、
「科学的」と呼ぶべきだろうと思っている。
だが、私たちの社会では、この言葉はそのような意味では使われていない。
むしろ、計測可能、数値化可能な現象だけを扱う自己抑制のことを、
「科学的」と呼ぶことが習慣化している。
・・・・・いまある計測方法で考量できないものは
「存在しない」と決めつける退嬰的態度のことは、
むしろ、「科学主義的」と呼ぶべきだろう。
多田先生(内田氏の師匠)は、
「戦国時代の武士がもし今の世に生きていたら、
刀を振ったり、人を投げたり殴ったりするような稽古をしているはずはない」
「武士が今の世界に生きていたら、
おそらく最先端の科学を研究しているだろう。
どうすれば人間の生きる知恵と力が高まるかを知るために、
医学であれ、情報工学であれ、軍事科学であれ、
そういう研究をしているはずである」
そのときどきの歴史的環境において、
生き延びるためにもっとも有効な手立てを
ためらわず選択することができるのが、
その語の本来の意味での「武士」である。
内田氏はエマニュエル・レヴィナスというフランスのユダヤ人哲学者と
合気道の多田宏氏二人を「心の師」としているそうな。
文章が長くなったのは、私自身が記憶に残すためです。
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太極拳、神仙道、合気道、神道などの分野にわたり、
なかなか興味深い内容だ。
太極拳は、その昔ユダヤ人ヤコブが見えざる神に戦いを挑まれて
一昼夜戦いぬき、 神にその武芸を賞賛され、
以後イスラエル(神に打ち勝つ者)と
名乗ることになるのだが、
太極拳は、見えざる神との戦いの形が発祥ではないか、
太極拳のユニークさは、古代イスラエルの神秘思想、
キッベール(カバラ)の秘儀が土台にあるからだという説もある。
その太極拳の目指すところはまさしく
「老子」そのものであるという。
道(タオ)の説くところ、
大いなる道とは太和(おおいなる和合)であるという
「武術とは、人が生き抜いていくための方途であった。
究極のサバイバル術であったのである。
そのためには自分への危機を回避する必要がある。・・・
さらに深く危機回避の方法を追求してみると、相手を倒すよりも、
争いそのものが生じないようにすればよいことが分かってきたのである。
そして、どうやら、『害せず』『争わず』の道のほうが、
我々が生きている世界の根本原則にそっているのではないか、
と思われるようになったのである。(老子 第八十一章)」
ユダヤ、イスラエル、『害せず』『争わず』ときたら、
当然、キリストの「汝の敵を愛せ」に繋がってくる。
敵を心から愛することにより、敵と自分が一体化し(愛魂)、
自分が自分を攻撃することはなくなるという(保江邦夫 冠光寺真法)。
ところで、大いなる道、大いなる和合、
世界の根本原則とは何かと考えると、
それはどこか遠い所にあるのではなく、
いま流行りの言葉をまねて言えば
「ここでしょ」と言う事になるのではないだろうか。
今いる宇宙にはビックバン以来の背景放射があり、
宇宙は電磁波に満ちている。
我々の体内(脳内)は水分に満ちており、
「量子場脳理論」によれば、
水の電気双極子の電磁波による動きこそが
調和をもたらすものではないのか。
悲しいことに脳は頭蓋骨によってシールドされており、
脳内の電気双極子は宇宙の電磁波の影響を受けにくい
(そのせいで記憶が保たれる)
老子のいう、赤子、先天の気、無為自然というのは
体で電磁波を感じることではないのだろうか。
「柔よく剛を制す」とはよく言われる言葉だが、
老子には「柔弱」とあるところが「帛書『老子』」には、
「柔弱、微細」とあるという。
「柔弱だけでは堅強に勝つことはできない。
『柔弱』に『微細』が加わらなければ、
老子の言うようにはならないのである。
微細な感覚を養うには柔弱を知らなければならない。(第七十六章)」
実際、人間の感覚は肌で光の粒子を感じているのだという。
それを脳が必要ないものとして切り捨てているという。
微細な感覚でもって電磁波を感じることが出来れば
達人になれるかも知れない。
しかしその頃にはそんなことはドーでもよくなっているにだろう。
てな訳で、チクチクと 日差しはあれど 風涼し
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