ローフード
ローフード(生菜食)・ジュース。
豆苗(適当)、バナナ(一本)、
あまおう(半個)、水(適当)。
味はいける。
あまおう→あいか の間違い。
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ローフード(生菜食)・ジュース。
豆苗(適当)、バナナ(一本)、
あまおう(半個)、水(適当)。
味はいける。
あまおう→あいか の間違い。
読んだと思っていた本が読んでなかったり、
(読んだ後に押す判が押してなかった)
読んだはずが全く頭に残っていなかったり、
(文字を訂正してある)
進行が速くなったのかも知れない。
梅が咲いたとニュースがあった。
その後にカミナリ。アラレ。
逆ではないか。
雪カミナリで雪が降り、その後で春。
で、一句。
月も満ち 神鳴り前に 梅が咲き 晴眼
読み返しなのだが、一度目のことが頭にまったく残っていない。前回(2013・3・5 初版)では早すぎたのか。今回はすんなりと入ってくる。今読むべきなのだ。
右脳のことを考えている。普通の武術は左脳の武術なのだ(力学的・物理的)。それに対して、神道(陰陽道)の神通力・神業と言われるもの(古くは手乞:相撲の前身)、あるいはキリストの活人術・護身術は右脳の武術なのだ。その間には「暗くて深い河」がある。脳科学者のエベン・アレグザンダーが体験したように、左脳が故障すると右脳だけの感覚になり、「机についた自分の手と机の境界が曖昧になり、繋がっているような」感覚になるという。自分と世界(宇宙)が繋がりを持つ(一体感を持つ)と言う。当然そこに神様という言葉が出てきても不思議はない。
合気道・合氣柔術など、合気(合氣)と付く武術は右脳の武術なのだ。如何にして左脳の働きを抑えるかが問題の武術なのだ。大東流は陰陽道(神道)から出ており、合気道も神道に関係している。また、キリストの活人術:冠光寺眞法は、活人術の合気をそれまでのもの(左脳系か)と区別するために「愛魂(あいき)=冠光寺流柔術」と呼んでいる。「眞法という言葉を使ったのは、人を倒すとか、道場でなければやれないという領域を超えて、人を活かす道としても伝えられると思ったからです。相手も活き、自分も活きる、それが活人術にほかなりません。保江邦夫」と言うことだ。
ここでこうして私が書いているのは極めて「左脳的」なのだが、これを「右脳的」に書くと、長島さんが言ったように「ヒュッと来たボールをポンと打つ」。あるいは稽古の時、「正座・半座で相手(受け)と両手を合わせると、受けがピョンと立ち上がる、まるで自分から立ったように」となる。これでは何のことか判らない。実際に自分でも判らないのだが。
そこで、如何にして左脳を使わなくするか。第一番は身体をよく使うこと(人に親切にする、ゴミを拾うなど)と言う。次に他力本願。自我・自分の考えを捨てること・しもべになる(人を見たら神様と思う)こと。次には「愛し・愛されていると思い込む」。最後はマザーテレサのように、「在るがまま」にと言う。自分が何も考えなくなった暁には「在るがまま」になれるかも知れない。
菅原道眞公の先祖は、
「天穂日命(あめのほひのみこと:天照大御神の次男)で、
高天原からの先遣隊として地上に降り立った。
この地を支配していた大国主命から無事に国譲りが行われた。
大国主命が永遠に住む出雲大社を守ることになったのも、
天穂日命とその子孫である。」という。
「東風は春を呼ぶ風であり、世界の東の果て、
日本の文化、和風でもある。」
日本民族は、シュメールから海の道を通り、
九州に戻った日向族。(その後、大和に来て大和族)。
また陸の道(シルクロード)を通り、朝鮮から渡って来た出雲族。
二つとばかり思っていたがもう一族あったという。...
シュメールから草原の道を戻った人は、
火山を追いかけて富士山に来たという。
その後、淡路島に行ったという。それが縄文人らしい。
淡路王朝はあまり長くは続かったので、それを忘れないように、
イザナギ・イザナミのオノゴロ島(淡路島)の国生み神話で残したという。
明けましてお目出度うございます。
インクが無くなることもなく、
やっと無事終わりました。
本年も「動而無動」の氣持ちです。
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