久しぶりで「魯山人」の本を読んだ。
山田 和 氏の著作で、今まで読んだ本とはかなり異なっており、
また、詳しかった。
印象は「不知雲雨散」(雲雨散ずるを知らず)
和氏の父上が最後まで手放さなかった魯山人の扁額(杜甫の詩)
昔、楚王(襄王)が宋玉(楚の大夫)と雲夢(うんぼう)の台に遊んだとき、そこから高唐の高楼を眺めると、そのあたりに雲が盛んに湧き上がり、形を変えてとどまることを知らなかった。不思議に思った王が「あれは何の気か」と宋玉に訊ねると、宋玉は「あの雲は朝雲といい、かつて先王(懐王)の夢中に現れ、枕席をともにした神女が、朝は雲になり夕べには雨となっているのです。王はすでに亡くなられたにもかかわらず、神女は王の寵愛を受けようと、今もああして現れているのでございます」と説明したという。
すなわち相手に会えなくなったことを知らぬまま、今も慕っているという意味である。
魯山人の陶磁器を蒐集していた人も、ある時期になると、
それを手放してしまうと言う。
『器の美の本質が器を超えて、己の脳裏にしっかりと捉えられていることに気がつくのだ。そこであなたは考える。自分は美を永遠不滅のもの、己を無常のものと考えてきたが、美の永遠は目の前の器を超えて無常の私の肉体の中で光を放っていると(本文p604)』
生作 越前丸鉢
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