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面白かった、しろい本

  • 保江邦夫: 唯心論武道の誕生
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2011年3月29日 (火)

印象派

日曜の骨董塾を見ていたら、印象派についての講義があつた。

非常に解りやすく、もっと早くに知っていたらと思う内容だった。

曰く、絵の具がチューブ入りになったことが非常に大きかったようだ。

チューブ入りになった事で、戸外で直接に描けるようになったと言う。

それまではスケッチした絵を家の中で色付けしていたのだ。

戸外で描くことによって、色の変化がよく理解できたらしい。

なんと、絵の具の種類が減って色彩豊かな絵が描けたという。

点描の絵が出て来たのも納得できる。

ウロコウロコの毎日だ。

2011年3月28日 (月)

二次災害

酒屋の話によると、

東北大震災の影響で何でもかんでも自粛となって、

景気が落ち込んで二次災害になりそうらしい。

福井があぶないとか、嫌なことになって来た。

話し代わって、

今日、そば粉を買いに行く途中に、例の植木鉢を見た。

何と植木鉢には大根やトマトの苗が植えてあった。

  一句

    二つ三つ 菜園になり 植木鉢

                            生眼

2011年3月23日 (水)

国歌

日本辺境論を読んでいる。

国歌について書いてある所を抜粋すると、

 「『君が代』の歌詞は古今和歌集に収録されていた雅歌を原型とするものですが、最初に曲をつけたのはイギリス公使館にいた軍楽隊長のジョン・ウイリアム・フェントンです。それが洋風の音階でなじみが悪かったために、宮内省の雅楽の伶人によって改作され、それをドイツ人フランツ・エッケルトがアレンジした。

 そもそもフェントンがヨーロッパではどこの国でも国歌というものがあって、儀礼の時には演奏するものである、日本だけないとまずい、とアドヴァイスしたことが国歌制定のきっかけです。(省略)外交プロトコル上の必要から国歌は制定された

国歌よ、おまえもか。目から涙とともにウロコ。

2011年3月16日 (水)

ふね

黒船が来て、赤船が来て、今度は白船か。

年号が変わるのかも。

  一句

      三度目も 天地揺るがす 白い船

                           生眼

2011年3月 9日 (水)

卒業

中学生の卒業生らしい一団に出会った。

 一句

    上履きを ぶらぶらさせて 卒業し

                             生眼

2011年3月 7日 (月)

エネルギー

友人の整体の講習会?へ顔を出した。

場所がわからず引き返そうと振り向いたら、友人の顔があった。

場所は思った以上に小さく、広い場所を想定していた私には

看板も出ていたのだが目に入らなかった。

本日は気功の体験ということで診察してもらったら、

相変わらず、体幹が歪んでいるとのこと。

足と腰と上体がてんでに違う方を向いているらしい。

おまけに、夜の仕事なので気が出て行くだけらしい。

気を流してもらったら、コリ(痛み)がとれた。

減る一方の気は、武道館へ通うことでかろうじて保っているらしい。

寒いせいで、体操もせず武道館もご無沙汰では

疲れが取れないはずだ。

また、胃のあたりへはどんどん入って行くらしい。

内臓も弱っているのだ。

生活を変えないと悪循環に陥りそう(すでに陥っているか)

2011年3月 4日 (金)

PS

美術好きの友人に魯山人の本について話したら、

「器を手放すのは骨董屋の常」との言葉だった。

商売柄、色々あるのだろうが、

飽き性な私にとっては、すんなりと受け入れられたのだが・・・

本を読んでは感激し、しばらく読み続けると飽いてしまう。

人も然り。

何となくその人の「底が見えた」と思えたら、興味を失ってしまう。

もちろん一年や二年ではない、十年、二十年の時もある。

しかし、面白い事に十年、二十年の付き合いになると、

長く続いて行く様だ。

それはその人も何かしらの発展を持っているせいだと思う。

ま、私も飽き性で、気短かではあるが。

2011年3月 2日 (水)

弥生の雪

お客様の話によると、3月の頭は高い確立(忘れた)で雪が降るらしい。

それで賭けをしたらしい。

きょう二日は雪で、それも積もっている(21:12時)

どうやらお客様は掛けには勝った様だ。

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2011年3月 1日 (火)

久しく

久しぶりで「魯山人」の本を読んだ。

山田 和 氏の著作で、今まで読んだ本とはかなり異なっており、

また、詳しかった。

印象は「不知雲雨散」(雲雨散ずるを知らず)

和氏の父上が最後まで手放さなかった魯山人の扁額(杜甫の詩)

昔、楚王(襄王)が宋玉(楚の大夫)と雲夢(うんぼう)の台に遊んだとき、そこから高唐の高楼を眺めると、そのあたりに雲が盛んに湧き上がり、形を変えてとどまることを知らなかった。不思議に思った王が「あれは何の気か」と宋玉に訊ねると、宋玉は「あの雲は朝雲といい、かつて先王(懐王)の夢中に現れ、枕席をともにした神女が、朝は雲になり夕べには雨となっているのです。王はすでに亡くなられたにもかかわらず、神女は王の寵愛を受けようと、今もああして現れているのでございます」と説明したという。

すなわち相手に会えなくなったことを知らぬまま、今も慕っているという意味である。

魯山人の陶磁器を蒐集していた人も、ある時期になると、

それを手放してしまうと言う。

『器の美の本質が器を超えて、己の脳裏にしっかりと捉えられていることに気がつくのだ。そこであなたは考える。自分は美を永遠不滅のもの、己を無常のものと考えてきたが、美の永遠は目の前の器を超えて無常の私の肉体の中で光を放っていると(本文p604)』

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003 生作 越前丸鉢